サンキャッチャー・LamRim


虹の世界
by suncatcher-lamrim

父と母の異常性。 母の場合・その3

母は短大を卒業すると同時に結婚しています。
父が、 
『 何もしなくていい。 身体ひとつで来てくれたらいいから 』
そう言って猛烈に口説いたのだそうです。



しかし現実には舅姑・小姑二人との同居生活。
嫁としての家事も当然こなさねばなりません。

母は激怒し、 『 話が違う。 離婚する 』 と騒いだそうですが
時すでに遅くお腹には私が宿っていたのでした。






私は物心ついた頃には祖父母に育てられていました。
母が赤ん坊の私を殴っていたのをみかねて
引き取ったのだと親戚から聞きました。

母は私を産んで半年ほど精神病院に入院していたのだそうですが、
すぐに双子を出産。


次女は叔母に預けられ、三女だけが母の元へ。









小学校に上がる頃には家族一緒に生活していましたが
母はまだ20代と若く、子供心に頼りない存在でした。





母は家事が苦手で遊ぶことが大好き。
平日には家政婦さんが来てくれ家事をやってくれます。


倍以上年が離れた彼女達にむかって

『 女中ふぜいが 』 『 使用人の分際で生意気なっ 』

などと言うのを聞くことが本当に苦痛でした。















最初の頃に来てくれた家政婦さんは
とても優しく料理も上手なおばあちゃんで
私も妹達もいっぺんで好きになってしまいました。

週末にもその人に会いたくて、わざわざ家まで遊びに行ったことも。


しかし、子供達が懐いたのがムカつくという理由で
 『 手癖が悪い 』 と濡れ衣を着せてやめさせられてしまいました。

母が家政婦紹介所に電話して
その人のことをあることないこと悪く言うのを聞いていて
悲しいのと申し訳ないという思いで
胸が張り裂けそうになったのを今でもはっきり覚えています。


その後、些細な理由で母は首を切り続け、
何十人もの人達が我が家にやってくることになりました。















母は人の痛みを理解したり想像するという能力が一切ありません。
それは当然身内に対しても同じこと。


母方の祖父は戦時中、
長崎県庁に勤めており
『 原爆投下の翌日に線路伝いに佐賀まで歩き長崎市民の食料を調達しに行った 』 
という話をよくしてくれていました。

詳しく聞くことはありませんでしたが
死に掛けた人達が水を求めて必死ですがってきたことを
苦しげに打ち明けてくれました。



祖父はよくうなされて 『 うおー 』と叫んで
腕を振りまわすことがあり
隣に寝ていると殴られる危険性がありました。


そんな祖父を母は鼻でせせら笑い、 

『 ボケて暴れるからそばに近寄るな 』 などと言っていたのです。


しかし。
子供心に 
『 戦争の時の心の傷でうなされてるのに、なんでそれが理解できないの? 』
不思議でたまりませんでした。

そうして、母の思慮の浅さや思いやりのなさを軽蔑するようになったのです。


















祖母の法事をあるお寺で行った時のこと。

そのお寺は数ヶ月前に放火にあい
ワイドショーを大きく賑わせていました。


母は親戚の前でいきなり
『 ほら、このお寺は放火で有名なのよ!! 
テレビで観たでしょ!燃えたのはあそこよ!あそこ!! 』 

と、得意げに声をはりあげて説明し始めたのです。


あろうことか、住職さんの目の前で(;_;)























こういった言動は病気のせいなのでしょうか?



そして病気だったら許されることなのでしょうか?












何もかもこんな調子でした。

恥ずかしい。
恥ずかしくて穴があったら親を生き埋めにしてやりたい。










       ・・・・・・つづく


























サンキャッチャーショップLamRim オンラインショップはこちら
   ↓  ↓
★⇒http://suncatcher.ocnk.net/


サンキャッチャーショップLamRim HPはこちら
  ↓ ↓
★⇒http://suncatcher-lamrim.com/?page_id=13
by suncatcher-lamrim | 2013-08-17 18:30 | 親のこと
<< 父と母の異常性。 母の場合・その4 父と母の異常性。 母の場合・その2 >>


カテゴリ
以前の記事
お気に入りブログ
メモ帳
最新のトラックバック
ライフログ
検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧